5万平方キロメートルで、ロシア連邦に次いで世界で2番目に広い[5]。 国土の南側はカナダ=アメリカ合衆国国境が走り、北西部でもアメリカ合衆国アラスカ州と国境を接する。西は太平洋、東は大西洋に面する。北辺は北極圏で、北東にデンマーク領グリーンランドがあるほか、北極海と挟んでロシア連邦と向かい合っている。 概要[編集] 現在のカナダには、ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸の植民地化以前に、アメリカ先住民諸族が居住していた(「ファースト・ネーション」「イヌイット」参照)。近代国家の萌芽は、英仏両国による植民地化で始まった(英領アメリカおよびヌーヴェル・フランス)。フレンチ・インディアン戦争で敗れたフランスは北米植民地をほぼ手放し、カナダは1763年からイギリス帝国に包括された。 1867年の連邦化をきっかけに独立が進み、1931年にウエストミンスター憲章で承認され、1982年憲法制定をもって政体が安定した[6]。現在、政体は連邦制をとり、連邦政府の運営は首相を中心に行われている。 一連の過程においてアメリカ合衆国と政治、経済両面での関係が深まっている。 象徴[編集] カナダにおける国家の象徴は、国の地理、寒い気候、国民の生活およびヨーロッパの伝統的観念と先住民の象徴のカナダ化を強調したものとなっている[8]。また、自然、開拓者、猟師、商人などの観念は、初期の象徴主義の発展において重要な役割を果たしている[9]。 この節の加筆が望まれています。 国名[編集] 1982年憲法が制定される前には複数の名称が存在したが、現在は公用語の英語とフランス語の双方で「Canada」のみが公式名と定められている[10]。 日本国政府による公式名は「カナダ」[5]。日本における漢字表記は「加奈陀」(当て字)であり、「加」と略される。中国語における表記は「加拿大」。国名は、1535年にフランス王国の探検家ジャック・カルティエがセントローレンス川流域に達した際に聞いたイロコイ族の「村落」を意味する語「カナタ(kanata)」に由来すると考えられている[11]。連邦制を強調するため、「カナダ連邦」「カナダ連邦政府」などの呼称が使われることもある。 1867年に連邦制をとる一つの地域が確立されるにあたり、君主制を強調するため国号はカナダ王国(Kingdom of Canada)とすることも検討されていた[12][13]が、本国イギリスの植民地省が反対し、1867年の英領北アメリカ法ではカナダ自治領(Dominion of Canada)と言う国号が使用され、1931年のウェストミンスター憲章制定(独立国家とあまり相違のない高度な自治権が確立された)後も1951年まで「自治領」(Dominion)という言葉が使われる慣習が残っていた[14][15]。1982年憲法では国名を「カナダ」として表記している。 歴史[編集] ファースト・ネーション(先住民)やイヌイットの言い伝えでは、先住民たちは時の始まりからこの地に住んでいたとある。一方、考古学的研究では北部ユーコン準州に26500年前、南部オンタリオ州には9500年前に人類がいたことが示されている[16][17]。 ヨーロッパ人の到来は西暦1000年にヴァイキングがランス・オ・メドーに居住したのが初めてであるが、この植民地は短期間で放棄されている。 1497年にイタリア人のジョヴァンニ・カボト(ジョン・カボット)がイングランドのために大西洋側を探検し[18]、1534年にはフランスのジャック・カルティエがこれに続いた[19]。 1603年に到着したフランスの探検家サミュエル・ド・シャンプランは、1605年に初めてのヨーロッパ人定住地をポート・ロワイヤル(現:ノバスコシア州アナポリスロイヤル)に築き、1608年にはケベックを建てた。これらはのちに、それぞれアカディアと、カナダの首都となった。 ヌーヴェル・フランスの植民地の中ではカナダ人(Canadiens:フランス系カナダ人)はセント・ローレンス川流域に、アカディア人は現在の沿岸諸州に集中的に居住している。フランス人の毛皮商人とカトリック教会宣教師たちは五大湖、ハドソン湾、ミシシッピー川流域からルイジアナを探検した。イングランドは1610年にニューファンドランド島に漁業基地を設け、南部(現在のアメリカ合衆国領)に13植民地を築いた。 1670年、ハドソン湾会社が設立された。毛皮の倉庫証券は通貨としても使われた。1689年と1763年に一連の北米植民地戦争が起こり、その結果、ユトレヒト条約(1713年)でノバスコシアが英国の支配下となる。七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)のパリ条約で、カナダとヌーベルフランスの大部分がフランスからイギリスへ割譲された。 1763年宣言はケベックをヌーベルフランスから分離し、ケープ・ブレトン島をノバスコシアに加えた。これはまた、フランス系カナダ人の言語と信仰の自由を制限した。1769年にセント・ジョンズ島(現:プリンス・エドワード・アイランド州)が独立した植民地となった。ケベックでの紛争を避けるため、1774年にケベック法が制定され、ケベックの領域が五大湖からオハイオ川まで拡大され、ケベックにおいてはフランス語とカトリック信仰、フランス法が許された。これは13植民地の多くの住民を怒らせることになり、アメリカ合衆国の独立への動因となった[20]。アメリカ独立戦争の講和条約である1783年のパリ条約によってアメリカの独立は承認され、五大湖南部がアメリカへ割譲された。戦後におよそ5万人の王党派がアメリカからカナダへ逃れている[21]。一部の王党派のために沿岸諸州のニューブランズウィックがノバスコシアから分割された。ケベックの英語話者王党派のために1791年法が制定され、フランス語圏のローワー・カナダと英語圏のアッパー・カナダがそれぞれ独自の議会を持った。この分断策は1837年にローワーとアッパーの両方で反乱が起きて無意味となった。 アッパーおよびローワー・カナダは米英戦争(1812年戦争)の主戦場となった。カナダ防衛は英国系北アメリカ人に一体感をもたらした。穀物法制定(1815年)と人身保護法廃止(1816年)により、英国とアイルランドからの大規模な移民が始まった。 1837年に責任政府を求める反乱が起こった。時のカナダ総督である初代ダラム伯爵ジョン・ラムトンは本国政府に対して、叛乱に対するダラム報告を行った。その報告では責任政府とフランス系カナダ人の英国文化への同化政策が勧告された[22]。また同時に、「カナダ植民地の統治を行う者たちが国王の名代たる総督ではなく、植民地人の代表たる(カナダ)議会に責任を負う権利を(カナダ責任政府は)持つようにするべきだ」と提言した[23]。同報告はあわせて、「隣国のアメリカ合衆国が州同士の関係性として連邦制を持ち込んだことは理にかなっていた」という先駆的な示唆も行っている[23]。 この報告に基づいて1840年憲法により、アッパーおよびローワー・カナダはカナダ連合に合併した。議会においては、フランス系および英国系カナダ人はともにフランス系カナダ人の権利の復活のために努力した。1849年、英領北アメリカ植民地全土に責任政府が設置された[24][25]。 1846年に英国と米国によるオレゴン条約が結ばれ、オレゴン境界紛争が終結した。これによってカナダは北緯49度線に沿って西へ境界を広げ、バンクーバー・アイランド植民地(1849年)とブリティッシュコロンビア植民地(1858年)への道を拓いた。カナダの北西にはロシア領アメリカがあったが、アメリカ合衆国によるアラスカ購入(1867年)で南北ともにアメリカが隣国となった。 ニューファンドランドには大西洋横断電信ケーブルが敷設され、西方でゴールドラッシュが起きたことなどからカナダの人口が増えていった。一方で、フランス系カナダ人がニューイングランドへ流れ出た。 フェニアン襲撃に対応しながら憲政会議を重ね(写真参照)、1867年7月1日に1867年憲法法が採択された。オンタリオ、ケベック、ノヴァスコシア、ニューブランズウィックが統合され、「カナダの名の下のひとつの自治領」である連邦が作られた[26] 。カナダはルパート・ランドと北西地域を合わせたノースウエスト準州を統治することが前提とされた。この地では不満を抱いたメティ(フランス系と先住民の混血)によるレッド・リヴァーの反乱が起こり、1870年7月にマニトバ州が作られた。ブリティッシュコロンビア植民地とバンクーバーアイランド植民地(1866年に合併)は1871年に、プリンスエドワードアイランド植民地は1873年に、連邦へそれぞれ加入した。 保守党のジョン・A・マクドナルド首相 は、萌芽期のカナダ産業を守るための関税政策を制定した。西部を開拓するため、政府はカナダ太平洋鉄道を含む3本の大陸横断鉄道を助成した。自治領土地法により開拓者のために大平原が解放され、この地域の治安維持のために北西騎馬警察が設立された。1898年、ノースウェスト準州でのクロンダイク・ゴールドラッシュの後、政府はユーコン準州を設置した。自由党のウィルフリッド・ローリエ政権下ではヨーロッパ大陸からの移民が大平原に定住し、アルバータとサスカチュワンが1905年に州に昇格している。 1914年、第一次世界大戦が勃発。英国の対独宣戦布告に伴い、カナダも自動的に参戦することになり、志願兵からなるカナダ海外派遣軍を西部戦線へ送り込んだ。彼らはのちにカナダ軍団の一部となり、パッシェンデールの戦いなどで重要な役割を果たしている。1917年には、保守党のロバート・ボーデン首相がフランス語圏ケベックの住民たちの反対にもかかわらず徴兵制を導入し、徴兵危機が起こっている。 第一次世界大戦は英仏やカナダなど連合国の勝利で終わり、1919年にカナダは英国とは別個に国際連盟へ加盟した。この時期はヴィクター・キャヴェンディッシュが総督であった。 1931年、ウエストミンスター憲章によりカナダの独立が承認された。その後、1930年代の大恐慌にカナダ国民は大いに苦しめられた。 1939年に第二次世界大戦が始まり、カナダは再び英国側で参戦。欧州では西部戦線やバトル・オブ・ブリテン、イタリア戦線などに派兵した。太平洋戦争が起きると米国とともにアリューシャン方面の戦いで日本軍への攻勢に加わり、日系カナダ人を抑留した。 1945年の終戦後にカナダは国際連合の原加盟国となり、ソビエト連邦との冷戦では米英などとともに北大西洋条約機構(NATO)を構成して西側諸国の一翼を担った。 1960年、カナダ権利章典が制定された。これは州の同意が得られなかったため連邦権限の範囲で運用された。1965年に現在のサトウカエデの葉の国旗が採用・掲揚された。1969年には2か国語公用語が実施された。1971年には多文化主義が宣言されている。ケベックでは近代からナショナリスト運動 (Quebec nationalism) が続いており、1960年代の経済改革(静かなる革命)につながった[27]。1970年に運動がエスカレートしてケベック解放戦線がオクトーバー・クライシスを引き起こした。この頃から1982年のカナダ憲法制定にかけて、首相のピエール・トルドーが連邦の一体化を強力に推進した。 政治[編集] 1982年憲法第33条はカナダ憲法最大の特徴をなす。カナダ議会(連邦議会)と州議会の立法に対して最高裁が違憲判断を下したときでも、立法府が譲らなければ違憲判決の発効を先延ばしできる。猶予は最長5年間だが何度も更新できる。 アメリカ合衆国と異なり、国民皆保険や医療費無料、公営企業重視といった社会民主主義的な要素が受け入れられているリベラルな国民性を反映し、高福祉・高負担の施策がとられている。ただ、カナダ西部の内陸部はエネルギー産業で成り立つ保守主義の地盤であり、キリスト教福音派の影響が大きい地域もある。リベラル気質の強い移民、有色人種の多い大都市圏とより保守的な白人社会である郊外や農村部との価値観の違いも少なくない。また、ケベック州はナショナリズムの強い地域である。 2021年カナダ総選挙前、カナダ自由党は下院の第1党であったが、過半数の議席を有しなかった。2021年カナダ総選挙の結果、カナダ自由党のその地位は変わらなかった。 政治体制[編集] 政体は立憲君主制である。公式にはイギリス国王が国家元首(ただしカナダではあくまでカナダ国王の扱い)となる[28]。形式的にはカナダ総督がカナダ国王の代理を務め、また実質的な首長は、総選挙により選出される連邦政府の首相である。 現行のカナダの憲法は「1867年憲法」と「1982年憲法」の二つから構成される。1867年憲法は政治制度などを定める統治規定が中心で、1982年憲法は二言語・多文化主義、ケベック州や原住民居留地の特殊性などの人権規定が中心である。 行政[編集] 政府は議院内閣制を採用している。カナダは、歴史的に各州の合意により連邦が設立された経緯があることから州に大幅な自治権が認められており、それぞれの州に首相、内閣および議会がある。このためカナダにおける政治とは、州政府対連邦政府の駆け引きそのものということもできる。 立法[編集] 立法府たるカナダ議会はオタワに所在し、上院定数105名、下院定数338名の二院制を採用している。 政党[編集] 主な政党には中道右派・保守主義のカナダ保守党、中道左派・リベラリズムのカナダ自由党の二大政党と、中道左派・社会民主主義政党の新民主党、ケベック州の地域政党である左派のブロック・ケベコワ、環境保護主義のカナダ緑の党がある。 1993年の下院総選挙で、与党であったカナダ進歩保守党が改選前の169議席のうち167議席を失うという大惨敗を喫したことは、議会制民主主義が発達している先進国の政権与党が壊滅的な敗北を喫した例として、小選挙区制のモデルケースの一つとなる歴史的選挙であった。 司法[編集] アメリカ合衆国と異なり、刑法が連邦の管轄である。死刑制度は存在しない。 1989年のモントリオール理工科大学虐殺事件をきっかけに銃規制が強化されており、拳銃の携帯については一般には認められておらず、拳銃を携帯できるのは警察、軍と現金輸送を行う民間業者に限られている。農村部を中心に狩猟が非常に盛んであり猟銃の保持率は高いが、銃を使った犯罪発生率はきわめて低い。 国際関係[編集] カナダは英連邦に加盟している。また、世界の先進7か国(G7)の一つである。 自らをインド太平洋国家とも位置付けており、アジア太平洋経済協力(APEC)や環太平洋パートナーシップ協定(TPP)などに参加している。アジア諸国との経済関係を重視する一方で、中華人民共和国や朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)による軍拡や対外的威嚇への警戒を強めており、2022年11月27日に発表した今後10年の『インド太平洋戦略』では、中国を「破壊的なグローバルパワー」と捉え、気候変動対策や核不拡散での協力を掲げつつも、太平洋でのカナダ海軍増強、カナダの安全保障を脅かす中国資本による投資の制限を打ち出した[29]。カナダ軍海軍]の艦艇や軍用機は、北朝鮮との密輸(瀬取り)監視に参加している[30]。 軍事[編集] カナダ軍最高司令官は国家元首であるチャールズ3世に任命されたカナダ総督であるが、実質的な指揮権を持つのはカナダの首相である。カナダ政府はカナダ陸軍、カナダ海軍、カナダ空軍、カナダ統合作戦軍、カナダ特殊作戦軍の5つの軍種を保有する。 カナダは軍事同盟の北大西洋条約機構(NATO)の正式な加盟国であるが、カナダ軍は核兵器を一切保有していないため、核抑止はアメリカ軍に依存している。旧ソ連やロシアから大陸間弾道弾(ICBM)や戦略爆撃機が飛来する場合、北極海とカナダの上空が最短ルートとなるため、アメリカ合衆国とは共同で北アメリカ航空宇宙防衛司令部(NORAD)を設置している。 アメリカ合衆国の非武装軍用機が領空に入ることやカナダ軍の施設を訓練で使用することについても認められている。 1947年以来、カナダ軍は世界で200以上の作戦に従事し、72の多国籍軍による作戦参加している。カナダは1950年代から1990年代にかけて数多くの国連平和維持活動に参加し、集団安全保障体制を望んでいたが、キューバ危機のあとNATOへ急接近した。2001年にはNATO主導のアフガニスタン紛争にも派兵している。 一方で、2003年のイラク戦争への参加は拒否した。 地理[編集] カナダは北アメリカ大陸の北部に位置し、同大陸の約41%を占める。海外線の長さは世界一である。領土の54%は森林で占められている。ノースウエスト準州北西は湿地帯であり、地面や湖が凍る冬季でないと車両の通行が困難である。 大陸の北側にも広大な北極諸島を領有する。北極諸島と大陸側のラブラドル半島と向かい合うグリーンランドはデンマーク領であり、ネアズ海峡の中央にあるハンス島の領有権を巡る見解の相違が1973年以来あったが(ウイスキー戦争)、両国は2022年6月14日に分割領有する合意に調印した[31]。 南はアメリカ合衆国本土と、北西はアメリカ合衆国アラスカ州と陸上国境と接する。 東は大西洋、デイビス海峡、西岸の一部は太平洋、北はボーフォート海、北極海に面する。国土の中央部のウィニペグ湖からロッキー山脈にかけては、広大なプレーリー地域である。五大湖水路となる五大湖の北にはカナダ楯状地が広がる。 北極圏を含む寒冷地が多いため、人の住める地域は総面積に比して少なく、人口密度は3.
2008年5月23日閲覧。“Loi de 1982 sur le Canada | Loi constitutionnelle de 1982”. 2008年5月23日閲覧。 ^ “Origin of the Name, Canada” (英語、フランス語). Natural Resources Canada (2020年). 2022年9月15日閲覧。 ^ George M. Wrong; H. H. Langton (2009). The Chronicles of Canada: Volume VIII - The Growth of Nationality. Fireship Press. p. 60. ISBN 978-1-934757-51-2. オリジナルの2014-06-29時点におけるアーカイブ。 2010年7月1日閲覧。 ^ Hubbard, R. ; Rideau Hall; McGill-Queen's University Press; Montreal and London; 1977; p. 9 ^ “November 8, 1951 (21st Parliament, 5th Session)”. Canadian Hansard Dataset. 2019年4月9日閲覧。 ^ Bowden, J.
カナダ・トロントのクリスマスマーケット!行き方・お店など
輝くカナダの「光」ランキング|特集「カナダの光と闇」
John's プリンスエドワードアイランド州Prince Edward Island 146, 447 シャーロットタウンCharlottetown ユーコン準州Yukon Territory 37, 428 ホワイトホースWhitehorse ノースウェスト準州Northwest Territories 44, 088 イエローナイフYellowknife ヌナブト準州Nunavut 36, 919 イカルイトIqaluit 主要都市[編集] 都市人口[編集] 都市 行政区分 オンタリオ州 2, 794, 356 11 サレー ブリティッシュコロンビア州 568, 322 2 ケベック州 1, 762, 949 12 549, 459 3 アルバータ州 1, 306, 784 13 ノバスコシア州 439, 819 4 1, 017, 449 14 ラヴァル 438, 366 5 エドモントン 1, 010, 899 15 ロンドン 422, 324 6 マニトバ州 749, 607 16 マーカム 338, 503 7 ミシサガ 717, 961 17 ヴォーン 323, 103 8 662, 248 18 ガティノー 291, 041 9 ブランプトン 656, 480 19 サスカチュワン州 266, 141 10 ハミルトン 569, 353 20 キッチナー 256, 885 2021年国勢調査 都市圏人口[編集] 都市圏人口(人) 6, 202, 225 4, 291, 732 2, 642, 825 オタワ - ガティノー オンタリオ州/ ケベック州 1, 488, 307 1, 481, 806 1, 418, 118 ケベック 839, 311 834, 678 785, 184 キッチナー/ケンブリッジ/ウォータールー 575, 847 543, 551 465, 703 セントキャサリンズ/ナイアガラフォールズ 433, 604 ウィンザー 422, 630 オシャワ 415, 311 397, 237 317, 480 レジャイナ 249, 217 シェルブルック 227, 398 ケロウナ 222, 162 経済[編集] トロントのスカイライン。カナダ経済の中心地である。 国際通貨基金(IMF)によると、2010年のカナダの国内総生産(GDP)は1兆5, 636億ドル(約130兆円)であり、世界第9位である[37]。20世紀初めまで経済の主体は農業だったが、モントリオールやトロントが金融センターとなり、現在では世界有数の先進工業国となった。工業は自動車産業や機械産業が成長し、近年はIT産業が発展してきている。 カナダでは唯一の発券銀行として中央銀行のカナダ銀行があり、通貨カナダドルを発行・管理している。1カナダドル=100セントである。2012年3月29日にカナダ政府は実用性や製造コストなどの問題や理由により1セント通貨の製造を廃止することを発表している[38]。 地球温暖化対策として、カナダは京都議定書に署名はしたものの2011年12月に脱退を表明した[39]。2009年の気候変動実績指標では最下位のサウジアラビアに次ぐ59位であり、二酸化炭素排出量は10年前より25%も増えている。 鉱業[編集] 鉱物資源に非常に恵まれており、世界シェア10位に入る鉱物が17種ある。以下では2003年時点の統計データに基づく。有機鉱物資源では、天然ガス(6, 565千兆ジュール、3位)、燃料となる褐炭(3, 695万トン、9位)のほか、石炭(2, 954万トン)と原油(9, 111万トン)の産出量も多い。ダイヤモンドの産出量も1, 120万カラットに及び、世界第6位である。 金属資源では、 ウラン鉱(1万トン、1位、世界シェア29.
IMF (2021年10月). 2021年11月6日閲覧。 ^ 橋本光郎, ed (2012). Challenge 中学英和辞典. ベネッセコーポレーション. p. 113. ISBN 978-4-8288-6554-6 ^ 倉方秀憲ほか編『プチ・ロワイヤル仏和辞典 [第4版]』(旺文社、2010年、ISBN 978-4-01-075309-5)220頁 ^ a b c カナダ(Canada)基礎データ 日本国外務省(2022年11月29日閲覧) ^ カナダ憲法 国立国会図書館デジタルコレクション ^ "The mother beaver – Collection Profiles". The House of Commons Heritage. Archived from the original on December 22, 2015. Retrieved December 12, 2015.
8%、スコットランド系15. 2%、アイルランド系13. 9%、ドイツ系10. 2%、イタリア系5%、中国系4%、ウクライナ系3. 6%、オランダ系3. 3%、ポーランド系3. 1%、インド系3%である。また、3. 8%のカナダ人が先住民族の血を引くと回答している。3分の1の国民が自らの民族をカナダ人であると主張しているが、移民である祖先の出身国の民族意識よりも、民族的アイデンティティそのものはもはやカナダ人であると主張する人たちであり、大多数はイギリス系とフランス系であると思われる。 言語[編集] カナダにおける英語と仏語使用地域。黄色は英語、茶色は仏語、薄茶色が両言語使用地域、白色は人口希薄地域を表す 母語話者(カナダ)2011 英語 (56. 9%) その他 (21. 8%) 英語(「カナダ英語」参照)とフランス語(「カナダ・フランス語」参照)が1969年に制定された公用語法によって認められている公用語である。この公用語法では、連邦政府におけ[英語とフランス語が平等な地位にあることが定められた。連邦裁判所、連邦議会(カナダ国会)や連邦政府機関の全てで英仏2か国語が平等に扱われる。カナダ国民は、十分に需要がある場合には連邦政府の行政サービスを英語またはフランス語にて受ける権利があり、公用語の少数派側であっても、全ての州・準州にて教育を受ける権利が保障されている。 このような少数派側の権利は、民間サービスの隅々にも及んでいる。たとえば航空機の場合、旅客機内にフランス語を母語とする乗客が常時5%以上いる定期便では、航空会社は英語とフランス語の両方で機内サービスを提供するよう法律で定められている[45]。 2006年国勢調査[46] によると、国民の約58%が英語、約22%がフランス語を第一言語としている。約98%が英語かフランス語のどちらかを話し(57.
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人違いで「テロ容疑者」に、モロッコ女性が恐怖語る
カナダ - Wikipedia
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カナダ留学中に出会ったモロッコ | 海外留学するならGO留学!
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Rug more(ラグモア)|ラグ・カーペットの通販専門店皆さまこんにちは!スタッフの河野です。 先日、よりモロッコのコラムをご担当いただいておりました日本人の方のコラムは、大盛況のうちに終了しました。 おかげさまで、当店のモロッコカーテン、モロッコインテリアはますます人気が加速しておりまして、まだまだもっともっとモロッコのことを皆さまにお届けしたいなぁ、と思っておりましたところ・・・、 なんとっ! 新たに! とっても素敵なめぐりあいを経て、モロッコにお住まいのユキさんの【モロッコの暮らしコラム】がスタートする事となりましたヾ(≧▽≦)ノ 現地の日常やナウでホットな情報、インテリアや雑貨のご紹介などを約一年ほど定期的に更新予定です。 どんな内容かスタッフもワクワクです( *´艸`) それでは、早速!モロッコの暮らしコラム、始まります~~! 【 はじめまして 】 はじめまして。モロッコ在住のユキです。 モロッコ人の夫と息子と一緒に、マラケシュというモロッコの観光都市に住んでいます。 息子は3歳。いたずら盛り。 モロッコの自由な雰囲気のおかげでノビノビ元気(すぎるくらい)に成長しています。 【 結婚のきっかけは、モロッコ旅行!? 】 私の夫はモロッコ人。 彼とはモロッコではなく日本で出会ったのですが、実は出会う前に私はモロッコへ旅行に来たことがありました。 さらにその旅行中、偶然にも夫の実家近くを訪れており、夫とはそれがきっかけで初対面でも会話が弾んだのを覚えています。 今考えると、それが結婚の最初のきっかけだったのかもしれませんw 私の独身時代の趣味は海外旅行でした。 当時は会社員として多忙な生活を送っていましたが、休みは比較的長めに取れたので、長期休暇のたびに様々な国を訪れていました。 そんな中で旅行先としてモロッコを選んだ理由は、非日常感で癒されたかったから(疲れてたんだなぁw)。 当時の私にとって、モロッコは全くの未知の世界。日本の生活からかけ離れた経験をしてみたかったんです。 砂漠でラクダと戯れたりとか。 モロッコ雑貨のショッピングとか。 約1週間でしたが、大充実のモロッコ旅でした。 それにしても、その後再び訪れ、住むことになるなんて・・・!いやぁ人生、何が起こるかわかりません。 【 マラケシュという街に住んでいます 】 私が住んでいる街はマラケシュ。 「マラケシュピンク」と呼ばれるサーモンピンクの建物に囲まれる美しい街です。 某旅行サイトで人気観光都市として世界No.
カナダへの移住方法や費用、仕事の探し方などを徹底解説
9% 人口 総計(2019年) 3774万2000[1]人(39位) 人口密度 4. 2[1]人/km2 GDP(自国通貨表示) 合計(2020年) 2兆2049億500万[2]カナダドル($) GDP(MER) 1兆6440億3700万[2]ドル(9位) 1人あたり 43, 294. 795[2]ドル GDP(PPP) 1兆8515億4000万[2]ドル(16位) 48, 759. 254[2]ドル イギリスから独立 BNA法1867年7月1日 ウェストミンスター憲章受諾1931年12月11日 1982年憲法によるパトリエーション(英語版)達成1982年4月17日 通貨 カナダドル($)(CAD) 時間帯 UTC-3. 5 から -8 (DST:-2. 5 から -7) ISO 3166-1 CA / CAN ccTLD. ca 国際電話番号 1 カナダ(英・仏: Canada、英語発音: /ˈkænədə/ 聞く[ヘルプ/ファイル] キャナダ[3]、フランス語発音: /kanada/ カナダ[4])は、北アメリカ大陸北部に位置する連邦立憲君主制国家。イギリス連邦加盟国で、英連邦王国の一つである。10の州と3の準州からなり、首都はオタワ[5]。 国土面積は約998.
カナダ - Wikipedia出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索? : "カナダ" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib. jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年12月) この記事は英語版の対応するページを翻訳することにより充実させることができます。(2022年9月)翻訳前に重要な指示を読むには右にある[表示]をクリックしてください。 英語版記事を日本語へ機械翻訳したバージョンを表示します(Google翻訳)。 万が一翻訳の手がかりとして機械翻訳を用いた場合、翻訳者は必ず翻訳元原文を参照して機械翻訳の誤りを訂正し、正確な翻訳にしなければなりません。これが成されていない場合、記事は削除の方針G-3に基づき、削除される可能性があります。 信頼性が低いまたは低品質な文章を翻訳しないでください。もし可能ならば、文章を他言語版記事に示された文献で正しいかどうかを確認してください。 履歴継承を行うため、要約欄に翻訳元となった記事のページ名・版について記述する必要があります。記述方法については、Wikipedia:翻訳のガイドライン#要約欄への記入を参照ください。 翻訳後、{{翻訳告知|en|Canada}}をノートに追加することもできます。 Wikipedia:翻訳のガイドラインに、より詳細な翻訳の手順・指針についての説明があります。 カナダ Canada (国旗) (国章) 国の標語:A Mari Usque Ad Mare(ラテン語: 海から海へ) 国歌:O Canada(英語)Ô Canada(フランス語) オー・カナダ 公用語 英語、フランス語 首都 オタワ 最大の都市 トロント 政府 国王 チャールズ3世 総督 メアリー・サイモン 首相ジャスティン・トルドー 元老院議長ジョージ・フレイ 庶民院議長ジェフ・リーガン 面積 総計 9, 984, 670km2(2位) 水面積率 8.
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2%)、カリ塩鉱(820万トン、1位、世界シェア30. 9%)、 イオウ(903万トン、2位)、鉄鉱(1, 980万トン、3位)、銀鉱(1, 309トン、3位)、タングステン鉱(2, 750トン、3位)、ニッケル鉱(16万トン、3位)、亜鉛鉱(100万トン、4位)、コバルト鉱(4, 304トン、5位)、塩(1, 335万トン、5位)、鉛鉱(15万トン、5位)、金鉱(141トン、7位)、アンチモン鉱(143トン、8位)、銅鉱(56万トン、8位)が特筆される。このほか、マグネシウム鉱、リン鉱も採掘されている。銀は大不況 (1873年-1896年) の頃からコバルトなどの工業用金属を選鉱するときに副産物として生産されており、世界的な供給過剰と価格の下落を引き起こした[40]。 カナダは第二次世界大戦の頃、ベルギー領コンゴやチェコスロバキアと並ぶ世界的なウラン供給国であった[41][42]。2000年においては日本の天然ウラン輸入元における取引額1位であった。 かつてはカナダ政府の所有するケープブレトン開発公社(CBDC)なども存在したが、現在では政府の鉱山開発事業は公共事業・調達省の担当となっている。 貿易[編集] 最大の貿易相手国はアメリカ合衆国で、輸出の5分の4以上、輸入の約3分の2を占める。鉱物、木材、穀物は現在も重要な輸出品だが、近年は工業製品が中心となっている。アメリカへの輸出品で最多のものは、自動車と関連部品である。1989年にアメリカとの自由貿易協定(FTA)が発効し、1994年にはメキシコも加わって北米自由貿易協定(NAFTA)が結ばれた。 アメリカ以外の主要輸出相手国は日本、イギリス、中国、メキシコ、ドイツ、イタリア、主要輸入相手国は中国、メキシコ、日本、イギリス、ドイツである。主要輸出品は、自動車および自動車部品、精密機器、原油、天然ガス、金属および金属製品、産業用機械、通信機器、化学製品、木材、パルプ、小麦、魚類(サケ類やイクラ、マグロなど)、メープルシロップなど。輸入品は自動車部品、自動車、機械、化学製品、コンピューター、原油、通信機器などである。 交通[編集] 道路[編集] 鉄道[編集] 航空[編集] 科学技術[編集] 国民[編集] カナダの人口は連邦化時点から単調増加を続けている。カナダでは社会保険番号が国民識別番号として運用される。 民族・人種[編集] 人種(2011年 カナダ国勢調査) 黒人 (2.
南アで暮らす男性が固い絆で結ばれたライオンとハグ